今日は、中国古典である菜根譚のある種の注釈本とも言える守屋洋さんの「世界最高の処世術 菜根譚」(SB Creative)を読んだので、そのエッセンスをお届けしたいと思います。
「世界最高の処世術 菜根譚」ですか。中国古典とはまたジャンルが全く違いますね。
一体、どんなことが学べるのですか?
この本から学べることを下記の通り、SEの視点でまとめてみました!
- 「仏教」「儒教」「道教」をマスターした作者から、穏やかに生きるヒントをもらえる
- 自分では思つかないような考え方や、自分の心との向き合い方を学ぶことができる
穏やかな日々・平穏な暮らしを手に入れたいです!早く教えてください!
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なぜ「菜根譚」が今我々に必要なのか?
私は、この「菜根譚」を読んでまさに今我々に必要な考え方であると思いました。
「菜根譚」にはこの変化の多い時代で、生き抜くヒントを与えてくれる、そんな内容になっています。
まずは、古典がなぜ現代に通用するのか、その問いに答えて行きたいと思います。
古典は現代に通用する?
なぜ古典が現代に通用するのでしょうか?
そこを疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、その答えは歴史が証明しています。
実は有史以来、人間は様々な失敗をしてきました。
その中には選択を誤って失脚したり、後継者選びに失敗して国を滅ぼしたり、台頭してきた考え方(宗教)を抑えきれず主導権を奪われたり、国同士であらそったり。
マケドニアのアレクサンドロス大王の場合
例えば、かつて古代のヨーロッパ(というか中東も)で広大な領地を得たマケドニアのアレクサンドロス大王の当方遠征をご存知の方も多いと思います。
このアレクサンドロス大王ですが、東に向かってガンガン攻め立て、ついにはインドに至り、ようやくそこで、ストップします。
そして引き返す道中で、病死してしまうのですが、その後継者について彼はこう言いました。
「最強のものが俺の後を継げ」
その結果、内輪もめの大混乱が起きます。
ヘレニズム文化といったいくつかの文化を残しつつも、国は早々に滅びてしまいます。
広い領土が滅びを生む、問題だけを見てもその例は枚挙に暇がありません。
日本を脅かした元寇で有名な「元」もそうですし、第二次世界大戦前の「イギリス」も結局その広大な土地を失っています。
人類の失敗は精神的に成長していたら避けられるのか?
それらは結局、なにか革新的な精神の成長したが、避けることができない、つまり、やむを得ず同じ失敗を繰り返しているのでしょうか。
決してそうは言えないと思います。
拡大につぐ拡大は巨大な富を生み出し、それが次へ次へと欲望のままに拡大させるのは人間の根幹の欲望が、そうさせているとは考えられないでしょうか。
そう、このような問題は、精神的には変わらず同じ失敗を繰り返している、といっても過言ではない状態です。
ただし、技術によって規模が大きくなっています。
質が悪くなっていると言えるかもしれません
だからこそ、このように人の精神を説いた古典は普遍であり、重宝され続けているのです。
日本近代化の父で、福沢諭吉の次に1万円札の顔となり、中国古典「論語」を愛した渋沢栄一もこう言っています。
昔の聖人や賢人の説いた道徳というものは、科学の進歩によって物事が変化するようには、おそらく変化しないに違いないと思うのである。
現代語訳 論語と算盤 渋沢栄一 守屋淳
渋沢栄一が正しいと仮定すると、歴史は繰り返すその原因は、我々の心理面の進歩のなさが、それを引き起こしていると思えてこないでしょうか。
我々人類は、古代メソポタミア文明の文字という発明によって、時を超えた古代の叡智にふれることができるのです。
それが古典であり、今なお、有用である書物なのです。
中国古典が日本人に合う理由
日本は古代から中国に思想や文化面で様々な影響を受けてきました。
何気なくこうして使用している日本語も、もとを正せば中国の漢字が由来です。
文字が同じだからといって、思想まで同じなのか?
次はその質問について回答していきたいと思います。
一番最初に輸入されたのは、「仏教」
そんな我々日本人が古代中国から真っ先に輸入したもの、それが仏教です。
蘇我氏と物部氏が対立したという日本史の冒頭の「大化の改新」を覚えていますでしょうか?
あの対立の原因は仏教を日本に取り入れるか取り入れないかを争っていました。
ちなみに、日本に入ってきた仏教は中国の影響で大乗仏教と呼ばれる、ある種緩めの仏教であります。
キリスト教や、イスラム教と「外部に救い求める」という意味で似ています。
つまり、神様や仏様に救って”もらおう”という考え方です。
余談ですが、上座部仏教(原始仏教とも)呼ばれる、「すべての悩みの原因は自分の心にある」という質実剛健な仏教があり、私はこちらが好きなのですが、いつの世も大衆が求めるのは気軽で安寧な考えなようです。
江戸時代に「儒教」は権力とくっついた
そんな日本ですが、中国から輸入して現代の我々の道徳観の基礎となっている考えがあります。
それが紀元前に成立した「儒教」です。
「儒教」は江戸時代に徳川家康が日本を統治する際に利用した思想になります。
「儒教」は宗教色が非常に薄く、その教えの根幹は年上・権力に逆らってはいけないという思想で、
統治者が「仏教」という文化の上にアドオンするには、非常に便利な思想でした。
今でも年功序列の考え方が色濃く残っていますが、これがまさに「儒教」の考え方です。
我々は紀元前に成立した教えをベースにこの現代を生きているのです。
儒教=意識高い系?
一方で、「儒教」の原典であり、渋沢栄一も愛した「論語」は現代風に言うならば、「意識高い系」の部類に入る教えになります。
学問を治め、それにより正しく自分を律し、年上に礼を尽くす、というのが儒教の根幹になる教えです。
ただし、学問ばかりを治めそれを実践しない人は悪い人と定義され、逆に学がなくても年上を敬い礼節にかなっている人は良い人であると定義されていました。
秩序を乱さず、年上を敬い、自らは欲望を律する。
このような事を理想とすると、なるほど下剋上のような上が下を圧倒して秩序を乱すということは起こりにくいと考えられます。さすが江戸時代300年を作った徳川家康です。よくできていますね。
逆に言うと、この教えには息苦しさを感じる人も多いかもしれません。
全てにおいて「身の丈にあった」ものを求めるこの儒教は、拡大を求める人間の欲望とは相反しているように思われます。
そんな意味を踏まえて、「意識高い系」という言葉を使いました。
儒教とは全く逆の教え、「道教」
そんなエリートや統治者に好まれた「儒教」ですが、それに対抗する形で存在するのが「道教」になります。
これは、日本に入ってきたのは3世紀〜4世紀と古いものの、時の権力者に重用されなかったため、
表舞台に出てくるというよりは一般市民に親しまれていた思想です。
特に中国で、現代でこそその特性上、宗教が表に出てくることはありませんが、「儒教」「道教」はどちらも宗教色が薄く、どちらかといえば「儒教」がエリート、「道教」が一般庶民に親しまれたようです。
その教えは、「知識が増えるから悩みが増えるのだ」、「自然体でいることが何よりも大事だ」、「たくさんお金があれば、それだけたくさん心配ごとも増える」というのが根幹の教えになります。
知らなければ幸せで居られる、たくさんなければ失うものも少ない。
言ってしまえば「意識低い系」ですが、身の丈にあった生活こそが幸せの原点であるという教えは、拡大することを是とした現代人は一考すべき示唆を持っている考えといえます。
「身の丈にあった」という部分は「儒教」「道教」でも共通しており、
それを別々の方法で説明していると考えると、とても興味深いですね。
菜根譚とは?
今回の古典「菜根譚」ですが、実はこの「仏教」と「儒教」、そして「道教」の交差点にいる思想・処世術となります。
これら3つをしっかりと学び、処世術として落とし込んだ洪応明という中国の科挙を突破した士官が晩年に作成した書物になります。成立は明の時代であり、日本ではちょうど室町幕府〜江戸初期の時期でした。
この本を表す一文をこの著者のまえがきから引用したいと思います。
たとえば、功名富貴の追求を説きながら、一方では悠々自適の生き方にも共感しています。また、厳しい現実を生きる処世の知恵を説きながら、悩める心の救済にも救いの手をさしのべています。また、隠君子の心境に共鳴しながら、実社会に立つエリートの心得を説くことも忘れてはいません。
このように、どれか一つでは極端すぎたり、ちょうどよくない「仏教」「儒教」「道教」を適切なバランスで配合し、人生の実践的な教訓譚として書かれているのが、この菜根譚です。
まとめ
日本人に親和性の高い、中国の思想である「仏教」「儒教」「道教」の3つをハイブリッドしたのが、この「菜根譚」です。次回はその中から私が、おすすめの章をピックアップして紹介していきたいと思います。
次回予告
次回は、実際に菜根譚の言葉を引きながら以下のテーマでお伝えしたいと思います!
次回乞うご期待!
- 自分の鍛え方
- 組織で生きるための処世術
- 人付き合いの極意